土地記念講碑(光圓寺の根本)の移動
前の寺の由来で述べたように光圓寺は、明治2年に明治政府が国策で徳川幕府の野馬の放牧場だった現在の初富地区を幕府関係及びそれに伴う失業者を救う為に開墾社会を設立し、それで最初に開墾の手が入った初富に入植した人々たちが寺の移転を希望し、それに答えて当寺24代住職が現在の茨城県北総市より現在の鎌ケ谷市北初富に移転しました。
最初の入植者で寺の移転を希望した方々を中心に設立された御講の御子孫様たちが、開墾50年大正7年に開墾先人の御先祖様たちの御苦労を忘れない為に土地記念講碑を建設しました。
その碑は鎌ケ谷市の文化財に指定されておりますが、最近それの基礎が悪くなった為、それを修繕をしつつ当寺の根本といえる記念碑を、来寺を方々が見やすい位置への移動が完成いたしました。
最初の入植者で寺の移転を希望した方々を中心に設立された御講の御子孫様たちが、開墾50年大正7年に開墾先人の御先祖様たちの御苦労を忘れない為に土地記念講碑を建設しました。
その碑は鎌ケ谷市の文化財に指定されておりますが、最近それの基礎が悪くなった為、それを修繕をしつつ当寺の根本といえる記念碑を、来寺を方々が見やすい位置への移動が完成いたしました。