光圓寺からのお知らせ
光圓寺と土地記念講碑の結びつき
2020-10-26
鎌ヶ谷市初富と光圓寺の結びつき
鎌ヶ谷の初富と光圓寺とは深い深い結びつきです。鎌ヶ谷初富とは、明治政府が明治2年に東京府に、不眠の無籍浮浪者を下総国小金原(当時の千葉県相馬、千葉、葛飾、印旛の4郡)に農者として移住し開墾をさせる方針を示したことからできました。それで、東京府が開墾局を設置し葛飾県と合議して会社の設立をしました。その会社は三井の方と東京府の豪商さんを役員としました。それでその会社が、農者として下総国牧々へ移住した窮民に3年間の衣食住を含む一切の世話の約束をして約1万人を募集し、その中の約6千3百人を開墾場に移住させ結果開墾地は廣大となりました。その後明治5年に政府が基金の貸与金の返納の免除を認めました。
それから小金原の移住の方々がそこの住民となり、結果それらの場所の最初に移住された土地が現在の鎌ヶ谷市の初富地区となり、その後その初富に住む人達が集まり、自分の先祖様たちがここへ移転して生活が可能となるような特別な努力を忘れないように開墾の講日を設立し、その講日設立の方々が中心となりここへの入植の御先祖様と同じ宗旨の寺の移転を要望されました。その要望に対応したのが当寺24代の住職です。しかしその時期の寺の移転は非常に難しい寺の移転規則が作られました。それは寺の移転先の住居の方々に、寺の移転資金を寄付してもらいその寄付者の氏名金額を記載して書類を作り移転先の知事に提出して許可を得てから移転がする。その規則に従って千葉県知事に書類を提出し許可を得て現在地に移転しました。
それができたので、最初の入植者で寺移転を希望した方々が設立した御講関係の方々たちで
初富開墾50年の大正7年に、移転御先祖様たちの異常な努力を忘れない為に土地記念講碑を設立し、同宗寺移転の光圓寺の境内に『土地記念講碑』を設立されました。このように光圓寺の中心は御講の御子孫様たちの『土地記念講碑』と言ってその方たちに感謝致しております。